「カピバラ銭湯」における解剖学と神経科学

カピバラ銭湯」の著者は解剖学の教育と神経科学の研究をしているが,解剖学の話題ばかりをエントリーすることに気づくだろう.二人のヘンリーの話でも述べたが,解剖学の興隆期は19世紀で,その後現在ではヒトの体の中を肉眼的に探索して,新しい構造が発見されると考えるのは楽観的である.解剖学はおおよそ静的な状況に有り,大学における解剖学の機能の多くは教育と医学の諸分野の基本語彙の習得にある.話題の多くは既に解決済みで,解剖学の教科書が書き換えられたりする可能性は少なく,解剖学的事実による逆襲を受ける恐れが少ない.
 実際に著者が学生の頃の教科書には「成体の神経系では神経細胞の新生と再生は起こらず,神経細胞は脱落する一方であり,これが神経系固有の性質である.」と記載されていたし,誰もが,それを信じて疑っていなかった.ところが舌の根も乾かぬうちに,成体における神経細胞新生が発見され*1,細胞の初期化による神経系の再生が医療応用の現場にまで進出する様子を目の当たりにして,生鮮食品のように賞味期限の短い科学的知見を,あたかも確固たる永遠の建造物のように記載することの抵抗感と自らを欺く罪悪感は否めない.明らかでは無い事にふさわしい言葉を与えようと心がけ,事実に誠実であろうとすれば口数は少なくなり,断言の安易さを避けるようになる.

 ラボの日常においては,私達は多くの時間を研究に費やす.それは泥沼の中を向こう岸にわたりきろうと手足を動かしてもがいている様にも例えられ,前に進んだかどうかもわからぬ中で,どれほどの新しい構造・機能や概念を手にしたのか,それともこれから手にするのかを正確に予想と期待できないような中で過ごす,とても貴重で喜びに満ちた時間である.その尊さは「解決していない」事実の中にある.ぼんやりとしたものの中から,一瞬の輝きと煌めきを見いだすこと,どろどろとした混成物の中にひとかけらの事実の結晶を見つけ出すこと.きっと,輝きと煌めき,そして結晶が,昨今特に求められている「社会的有用性(役に立つこと)」には違いないが,ぼんやりから輝きへと変わる過程や,どろどろから結晶が見つかる過程にも尊さが内在している.例えそれが将来否定されて書き換えられて,私達に手痛い逆襲をお見舞いすることがあったとしても,だ.
 著者が神経科学の研究について頭を悩まして,心を砕いていることのほとんど全ては,解決していないことなので,気軽な気分でこの「カピバラ銭湯」に書くには至らないのである*2

*1:実は70年代に指摘した人はいたのだが,定説というものの前で,瞳の曇った私達はそれを無視して,真実から目を背けていたのだった.

*2:残念残念.