Henry Carter と Henry Gray

カピバラ銭湯」ではGray's Anatomy からイラストを頻繁に引用している.

*1

著者の没後に長い年数が経過して著作権が無効となったGray's Anatomy の第20版(1918年)は,全文がweb上に公開されており,全ての図版は著作権フリーで引用することができる*2.解剖学はルネサンスの頃に再興し,19世紀までには身体の中の様々な構造が次々と発見される最盛期となった.その様子は,電子顕微鏡によって組織や細胞の微細構造が次々と発見された1950~60年代や,遺伝子シクエンサーやPCRによって次々と新しい遺伝子が発見されヒトゲノム計画に至った1980~90年代における分子生物学の状況に似ていたのだろう*3.その頃の解剖学者の日常については「グレイ解剖学の誕生」*4に詳しい.当時,ロンドンで新進の外科学者・解剖学者であったヘンリー・グレイは脾臓の構造と機能を博士論文にまとめ,若干25才でRoyal societyのfellowに選ばれる.飛ぶ鳥を落とす勢いで,系統だった全身を網羅する解剖学の詳細な教科書をこの世ではじめて作る.グレイ31才の時である.写真が一般的では無かった時代において,観察所見を客観的に提示し,まとめる必須の技術は絵を描くことであった.しかしグレイは自ら絵を描くことは無く,4才年下の優秀な医学生ヘンリー・カーターの力を借りた.グレイ解剖学(「記述解剖学および外科解剖学」初版1858年)の全てのイラストはカーターの手によるものである.その後,グレイ解剖学が世に認められて,長い歴史の中で現代まで繫がる標準的な教科書として生き残ったのは,カーターの正確な絵による.しかし,グレイはカーターがイラストを描いたことを明らかにしなかった.カーターの貢献は長く認められず,業績は正当に評価されなかった.カーターは失意のうちにインドに渡る.二人の明暗は対照的であった*5

 グレイは34才で病に倒れ,この世を去る.他方,カーターはその後,ボンベイのグラント医科大学の教授として30年間にわたって解剖学と生理学を教え,インドにおいて数々の病原体を研究した初めての人物となる.晩年,イギリスに戻ったカーターは1897年に65才でこの世を去る.

*1:The muscles of the left hand. Palmar surface. Henry Carter, Anatomy of the Human Body. 1918. FIG. 427

*2:Gray’s Anatomy of the Human Body http://www.bartleby.com/107/

*3:接尾語”-ome”は様々なものと結びついて,その時々の学問の興隆を映す鏡のようである.gen"ome", prote"ome", transcript"ome", connect"ome"などなど..19世紀に同じようなことが流行っていたら,structur"ome”とかいう造語を作る人がいたのだろうか.それともstruct"ome"かな.

*4:「グレイ解剖学の誕生」Ruth Richardson (著), 矢野 真千子 (翻訳),東洋書林,2010

*5:「グレイ解剖学の誕生」にカーターが残した詳細な日記に基づいた彼の心象が記されている.