モニター越しの最終講義

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以前の近所の研究室にいたヒトの最終講義をモニター越しに見ていた.昔々,愚かな大学院生だった私のあこがれだった,バリバリに評判高く,ゴリゴリに力強く,キレキレで困難な問題を乗り越えていた教員達が集まった今の姿に,語ってくれたこととか教えてくれたこととか話したことを思い出しては重ねていたけれど,当時のまぶしい輝やきが,すっかり落ち着きを見せている様子を表現する言葉がうまく見つからない.何もかもが移り変わっていき,当時のかがやきを同じように感じることはもうできないのは,今の私を惹き付けるモノは当時とは変わっているからだ,輝き続けるためには赤の女王*1のように走り続けるしかないが,それだけでは十分ではない.自分の残すモノの輝きを大きくするのか,それとも自分が輝き続けるのかは別の問題だ.輝くモノを追い続ければ光を浴び続けることができるが,自分が輝くわけでもなく,残すモノが光るわけでもない.同じテーマを続けているのは知的怠惰だ,と私は彼に言ったことがある.彼は驚いて,そんなことは言っていない,と打ち消したけれども,それは私の本心だった.あの頃から.
 このヒトよりも絶対に多くを深く見てやると決意していた相手がいた*2.その時から数え切れない時間がたったけれど,私が多くを見ることは自分の努力ではないという限界からは逃げられない.相手よりも深く見通すかどうかも確信がなかった*3.けれども,今頃になってはっきりと気付いたことは,何か(what)を知りたいというよりも,この様(how)に知りたいと思っていたことだった.けれどもそれは,どんなギアで滑るかを決めるように方法に合わせて現象にとりつくという意味ではなく,尾根を滑るか沢を滑るかを決める様に,観たい景色があったということだった.観たい景色を探すために,探索の方法をかえ,対象を変えることは,研究の一貫性を少なく見せる.そうではないことが理解される確率が小さいことはよく理解できた.

 

*1:https://en.wikipedia.org/wiki/Red_Queen_hypothesis

*2:Hey, Bonni.

*3:そんなことは分かっていた.