遺残構造から過去や未来をイメージする

私達の大学(医学科)の解剖学教育は、実習での探索を少ない講義が補う形式である。講義が少ないおかげで、実習前に予習する時間を十分に取ることができるうえ、他のヒトの話を(受動的に)聞く機会に飢えている状態になるのか、時折行われる講義が珍しいので、多くが「講義が有意義だ」という。

 この意見は、用意した環境の結果であることを、私達は理解している。それを「講義数を増やせば教育満足度がさらに上がるだろう」と誤解して、例えば講義数を3倍にしたら、この要望はどこかに消え去ってしまい、出席が減少したり、座っているだけで話を聞いていない人が増えるだけになるだろうことは、容易に想像できる。

 むかしむかし*1、私が学生の頃は午前中に90分の講義2回を聞いた後に、午後中実習という組み合わせを、延々と繰り返していた。実習の日数は現在の2倍以上。そのころの私達学生は言われたことを行っていたが、現在のように体系付けられた自発的な探索をするという気持ちはほとんど無かった。そのせいだろう、学修する内容について意義を探ってイメージを広げる機会は乏しかった。

 最近の講義に対する自由記載には、ときに創造的なコメントが寄せられ、驚かされる。例えば、先週の講義には、こんなコメントがあった。
「今回の講義では特に「遺残構造」に感動しました。今では構造的に重要な機能をもたないが (臨床以外)、過去の履歴からヒトの発生や進化を知ることが出来るのはとても興味深かったです。まるで活断層から過去や未来を予測するようでした。」*2
何度も話した内容なのだけど、この発想は自分にはなかった。

自分の及びつかない解釈や議論が視野の外にある。認識されないものを無いものとする愚かさと、認識されないところになにかあると疑うことの間には、とても大きな隔たりがある*3

*1:昔々、あるところに愚かな学生(私)がおりました。

*2:こちらのコメントもすごい。ねらいどおりだ。

一年生の後期の解剖学であったイラストと同じものがあったが見え方が全く違う気がした。知識や実体験を重ねていくことで学びが深くなるとともにただの暗記科目ではなくなるように感じた。」

*3:現在、準備している原稿にもそれがある。人に言われるまで気づかないのは、本当に愚かだ。よかった、気がついて。気づかせてくれて、ありがとう、Rahul。