渡り廊下をはさんで隣りの建物で仕事をしていた人がノーベル医学生理学賞を受賞する様子を間近にしたことがある.
その人は,いつも爪楊枝をくわえて,エネルギッシュに廊下を歩き,大きな声で話す人だった*1 *2.研究所のポスドクや大学院生はブルドーザーのように困難に立ち向かうエネルギーを尊敬していたが,深く考えずに間抜けな応対をした相手を完膚なきまでに叩きのめすやり方を深く恐れてもいた.愚かなことや怠惰なことを全く評価しないばかりか,心の底から憎んでいるようだった.持ち前のエネルギーで周りの困難をはねのけたからこそ,その人はそこにいたのだった,と思う.
自らのプロポーザルによって,それまであまり使われていなかった動物をモデル動物にする研究に大きな予算がつき,研究棟の背後に大規模に系統立った飼育を行う施設が建てられ始めた頃,その人がいらいらしている様子は周りから見ていても容易にわかった.研究が始まる前にプロジェクトの成功を100%で言うことはできず,プレッシャーに耐えている様子は,当たり前の反応として理解することができた.その中で彼女は苦しんでいた.不安に押しつぶされそうに成りながら,愚かなポスドクに強い言葉をぶつけるような,普通の弱さを持つ人だった.美しい郊外の集落の中の広い庭のある大きな住居に一人ですみ,研究室のメンバーが帰った後に残って,夜遅くまで一人で研究所で過ごしている*3.その人が科学に生涯を捧げる様子を知っている私達は,ノーベル賞でももらわないと,とても報われない,と話していた.
私が研究所を離れた半年後のノーベル賞週間の発表の時,穏やかにほほえむ写真がその人の業績と共に新聞を飾った.それぞれ別の場所で働き始めた私達二人のポスドクは,メールを使って会話した.
「あんなに穏やかな表情をしたのを見たことは,今まで一度も無かったな.」
「報われて本当に良かったな.」
その人の凄さも弱さも,栄光も苦しみも身をもって感じ取っていた私達は,その人を天才だとは思わなかったし,手の届かない所の人だとも思わなかった.私達と同じ弱さをもったすぐ隣りにいる人だった*4.その人のむき出しの強さと弱さは,その頃に同じ研究所で過ごしていた大学院生やポスドクに,ひょっとしたら愚かで弱い私達にもそんなことが起きるのじゃないか,そんなことを夢想させたのだ*5
*1:彼女の50才の誕生日に開かれたシンポジウムに招かれた友人は「もともとヘビースモーカーだった彼女はパーマネントの職に就くことができたら禁煙する,とポスドクの時に宣言していたよ.見たところタバコは吸っていない様なので,どこかのポジションを得ることに成功したようだ.」とスピーチし,私達を爆笑させた.その友人はノーベル賞を共同受賞した.
*2:タバコを止めることができたが,その代わりに爪楊枝を手放すことができなくなったのだ.
*3:当時からその国の多くの研究者は,今で言うワークライフバランスを尊重する人たちが大多数で,ワーカホリックは忌み嫌われていた.
*4:その後,その人が爪楊枝を止めることができかどうか,私達は知らない.
*5:150人ほどいたその研究所のメンバーの中から,そんなことが起きると考えるのはあながち可能性が無いわけではない.