データが自分の身体だとしたら,論文原稿を書く事はその身体にぴったりのサイズの服をあつらえることに似ている.現実の自分に自信を持てずに,価値を表現できずに,野暮ったくなってしまい,身体に合わず後悔する服装,のような論文原稿になることがある.データが示す内容を把握しきれず,価値を理解せずに,ことさら残念な原稿ができあがることになる.
逆に,データの価値を過大評価し,誤ったイメージに基づいて,類推や過度の解釈をしてしまう危険も有る.それは自分のことを知らずに,上げ底の靴を履いて,お仕着せの似合わない服を着ているようなものだ.大きく見せようとして不格好なだけではなく,虚勢を張って本来とは異なった嘘のイメージを与える.そうするつもりはなかったのだと言い訳しても通じない.愚かさが露呈するだけだ.
サナギがアゲハになる様に,それまで野暮ったかった人が変身して,目を見張る美しさを表現する事ってあるでしょう.その変換点は自分を知ることだと思う.必要なのは,過度の解釈を戒めて,実験の意味とそこから得られたデータの内容を余すところなく理解して,どこまでが解決したか,どこに限界があって課題として残っているかを,正確に表現することにつきる.
大学院生のK君が論文を書いている.初めての原稿なので,一つずつ確かめながら進めている.ゆっくりであるが,それは必要なことなのだ.その時々に流行りのスタイルがあることは否めない.流行に合わせていれば,無難でもある.けれども自分のスタイルを持つことができれば,埋没することなく,輝く.それができれば,カッコイイ.