通勤のさなかに、同じような時間に移動する仕事の車と出会うことがある。
パンを製造する会社のトラックの後ろをずっと走っていた。側面には食パンをかじる小さな女の子の写実的な絵と「世界のパン」の文字がある、パン配送トラック。
トラックの中には、パン屋が焼いた温かいパンを収めた入れ物がたくさん積まれており、運転手がそれを一つづつ配送先に届けていることを、その時に想像してうれしくなった。
もちろん、それは大企業のパン製造会社の車で、積まれているのは工場のラインで大量に生産された工業製品で、白い帽子のパン屋の主人が釜から取り出したパンがホカホカしているハズはない。
それは私が勝手に思い浮かべているだけだ。その時の私のなかにあったイメージがパン屋の車に投影されただけ。
意味なんて、受け取る側がその時の気分で好きなように与えて、都合の良いように解釈するもの。いつも聞いているラジオ番組でリスナーが寄せたメッセージの中で「ライブに参加させていただく」という言い回しを聞くことがあるが*1、観客が同一化する自分の望みをアーティストに投影しているのだろう。「推し」のアイドルには自分の望みを写すのだろう。
それでも、その車に会うといつも同じように温かいパンを思い浮かべて、大学に着く。それはそれで幸せである。〇〇パン、それは最近の私の推し。
*1:妙なものだ。観に、または聴きに言っているだけだろうに。