B君に,どうすれば静脈弁をみつけることができるのか,と尋ねられた,静脈には弁があり動脈と異なると,どの教科書にも書いてあるし,解剖学総論(ヒトの構造の基礎)の授業で私もその様に話した.けれども,どの静脈にも弁があるわけではない.それを横で聞いていたCさんが「内頸静脈の中を探したけれども静脈弁はなかった」という.その通り.内頸静脈には弁はない.
膝窩動脈*1から分かれて,後脛骨動脈*2が下腿三頭筋の深層を走行する.この動脈は硬い結合組織性の鞘に覆われており,直ぐには観ることはできない.鞘を破り,中に入ると,一本の動脈の両脇に二本の静脈が挟むように走行している.後脛骨静脈である.動脈と静脈を剥離して,静脈を縦に開き,拡げて内腔を注意深く観察すると,ところどころで薄い膜状の構造が.上向きに口を拡げたポケットのように対面する.静脈弁である*3.動脈と静脈は,鞘によって制限された空間の中で,密接に接触することで,動脈の拍動による圧が効率よく静脈に伝えられ,静脈を側面から圧す.血液は静脈弁の作用によって,順次,押し出され,上方に向かって移動する.
立位や座位で過ごすことの多いヒトの下腿においては,静脈血は重力に抗して心に向かって流れる.下腿は筋ポンプ*4が機能する典型的な場所でもある.『下腿では重力に抗して血液を心に送るために静脈弁が発達している』と言いたくなるが,それは目的論的で,安易である.
これは仮説だが*5,下腿の静脈に弁を有した個体は,下肢の静脈血の逆流に起因する障害に苛まれることが少なく,子孫を多く残したのだろう.この様な場所に静脈弁を配置した個体の適応度は高いと考えられる.他方,内頸静脈においては,静脈血は重力をうけて自ずと心に向かうので,弁を作ったときのcostの割には適応度を増加させるbenefitは乏しい.costとbenefitの間で,適応度を最大化させる自然選択の結果,静脈弁は配置されたのだろう.