過酷な環境

昔々あるところに,チームがあった.私はそのメンバーだった.それぞれはプレーと勝敗に真面目で真剣だったが,私達は幼かったので,成果を出すために抑制し,調整し,まとまる事がなかった.まるで,様々な方向を向いているベクトルの矢が,それぞれの絶対値を大きくするためだけに労力を費やしているようだった.チームの目標・戦術と戦略が一致するには偶然を待つしかなく,練習中に意見が合わなかったり,試合中に形勢が不利になり,負けるかもしれないという不安とプレッシャーが襲いかかると,チームは容易に空中分解し,試合中に喧嘩し,目も合わせず互いを無視した.嫌になって途中でチームを離れる者,高圧的になる者,ふてくされる者.途方にくれて立ちすくむ者.そして,ことごとく負けた*1

 成果を上げるために真剣で,他の誰かがなんとかしてくれると思っておらず,自分がなんとかしてやると思い,それができると信じている.自分と他人に厳しく,自分の感じることは間違っておらず,考えは理解されると信じて疑わない.そんなチームで過ごした.それは中学の野球チームだった.

 何人かは卒業後も野球を続け,3人は1980年の夏の甲子園に出場し,二勝する.その中の1人は社会人野球に入り,1984年のドラフトで指名され,プロ野球選手になる,鈴木貴久である*2近鉄バファローズで15年間をプレーし,通算安打数,1226本.生涯打率,0.257.通算本塁打数,192本.鈴木は2004年に急な病気でこの世を去った*3 *4

 一学年上の遊撃手は卒業まで続け,その後に野球を止める.将棋部に入り,1979年の第15回全国高等学校将棋選手権大会男子団体で優勝する.高校卒業後に奨励会を経て,プロ棋士になり,6段まで駆け上がる,小野敦生である*5.小野は1993年に夭逝した.

 同じ頃,卒業生が地元で音楽活動を行なっていて,登下校時の校門の前でバンドのライブチケットを売っていた.バンドのリーダーもこのチームでプレーしていたらしい.彼らは,その後に井上陽水のバックバンドになり,認められて世に出る,安全地帯である*6.校門と道路を挟んだ向かい側の背後に製菓工場があり,工場の煙突を見ることができた.玉置浩二が「カリント工場の煙突の上に」(1993年)という曲で歌ったのはこの製菓工場かもしれない.その工場は随分と前に取り壊されて,今はもうない.

*1:そのチームの監督は名目上のもので,大きな影響を与えることはなかった.

*2:オリックス・バファローズ LEGEND OF Bs 2012|80s 近鉄バファローズ|当時の選手・監督|主な選手、監督、球場

*3:鈴木が現役の頃のバファローズはすごかった.ブライアント,新井,金村,大石,村上,石井,阿波野,吉井,野茂,赤堀.監督は仰木彬だ.

*4:ホークスの柳田のスイングはブライアントに似ている.

*5:https://www.shogi.or.jp/player/pro/163.html

*6:http://saltmoderate.com